年少だったか、僕はキリスト教系の幼稚園に通っていて、毎日英語の時間があった。
その時の先生がとても厳しくて、子供の自分には恐ろしかった。
タッタ先生という人は、あるとき僕がお腹が痛くなりそれを伝えると
「あなたの言っていることは嘘です」
と言い、とりあわなかった。
「あなたは嘘をついています」
あの目の恐ろしさと悲しさと悔しさは未だ覚えている。
小5のとき、6年生を送る会のために歌の練習の時間で、具合が悪くなり指導していた先生(名前は忘れた)にそれを伝えると
「みんな辛い中がんばってるのよ」
と言い、とりあわなかった。
そんな馬鹿なことないだろうと、今になって思う。
ここで僕が問題にしたいのは、「みんな苦しい思いをしながら現実を生きている」問題である。
果たしてみんなが辛いと、自分の苦しみが消えるのだろうか。そんなわけはない。
苦しいことは苦しいと声を上げるべきなのだ。
そうでなければ、永遠に苦しみ続ける。
そして永遠に苦しむことを、どこか美徳とする考えがある。
アンチサタン的思考は、今なお日本に蔓延っていて、少しでも苦しみから抜け出そうとすると、無情な言葉をかけられる。
苦しむことが美徳としてキリストの磔の絵を見せられると、幼年期の自分は恐ろしくて泣いてばかりいた。
負のエネルギーというものは、思考停止を誘発する。
みんな我慢しているから、我慢しなければならないというのは嘘っぱちだ。
ルール、マナー、モラルとはまた違うベクトルの話だ。
お前はどうなんだ?
お前はどうしたいんだ?
お前ならどうする?
そこが大事であって、苦しみを美徳とする考えは思考停止を促すだけの実にくだらない考えである。
今日見た映画は、そんな映画の気がして、嫌な気持ちになった。
辛くて苦しくて、人を傷つけてしまう人がいたら、その人に「みんな苦しいから」という言葉をかけるのは残酷だ。
その人の話をちゃんと聞いてあげるべきだ。
みんな同じだから、なかったことになるのなら、人間なんていらないのだ。
「みんな違って、みんないい」という言葉は優しく聞こえるが、僕は好きではない。
むしろ突き放した印象をずっと持っている。
悪役が辛い過去を抱えている必要はない。
しかしやたらみんな辛い過去を持っている。
それは負のエネルギーは描きやすく、また強いからだ。
良くないと思う。
個の否定に繋がっている。