なにを言う
男ならウンタラカンタラ
女ならウンタラカンタラ
ずっとずっと嫌いだった。
小学校の先生。
「男子なら重いものを持ちなさい」
それを聞いて、そそくさと動き出す友達。
首をひねる自分、、を指差し先生
「ほら!他の男子は動いているよ!若生くん!」
黙れ俺の名前を呼ぶな。
俺を「男」で括るな。
「らしさ」で括るな。
何故、「男」「らしさ」に反骨していたのか、たかが田舎の坊ちゃんが。
僕は最近考える。
優しさについて。
ある監督に言ってしまった。
「あなたの映画で描かれる優しさは、男根主義的世界観でのみ通じる優しさなんですよ」
あーーー!!!
言ってもうた!!
と、思った。
僕はよく考えるのは、男根主義的考えは、女性以上に、男が囚われ苦しみ、抜け出す術をまだ見出せずにいるのだ、と。
そして被害に遭うのは女性、が、多い。男根主義だからね。
しかしこれは本音の内の本音として、男根主義そのものを否定してしまうとどうなるかというと、地方が崩壊してしまうのだ。
地方の社会そのものが揺らいでしまう。
それが、社会を、日本を作ってきた、男根主義だ。
だから僕は地元を出た。
そこに存在している「愛」は全て「支配」にしか思えなかったからだ。
それも最近は行き過ぎた考えだと思うようにはなっている。
だって、家族と行った鬼首のスキー、楽しかったから。
さておき、男が男であることに疑問を抱く事、それ自体を奇異の目で見る大人は、溢れている。
それは自分がそう考える隙を与えられずに大人にさせられたから、あたかも当たり前のように教え子に接するのだろうし、それはそうだと思う。
性自認なんて、考えた時点で「らしさ」の引力から引き剥がされるのだ。
この「らしさ」の引力というものは凄まじいものがあり、学校社会という閉鎖空間では更に強く作用する。
していた。
自分が何者が、自分で認識する前に他者に選別されている感覚。
激しく激しく気分が悪かった。
気分が悪くなる事を伝えた段階で異常者扱いされた。
だから飛び出した。
僕のおばあさんは、小さい僕が悪さをすると棚から大きなハサミを取り出して「おちんちんちょんぎるからね」と言った。
あれは恐ろしかったな。
なんの話やねん。
でね!(長え)
別にわたしは男で構わないんですよ。
ただ自分が男だなと認識する理解する精査する時間を十分に与えられなかったという思いはある。
チン毛が生えてきたからお前も立派な男子だ!なんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。サブイボだらけだ。
この感覚はひょっとすると、男三兄弟の末っ子として育ってきたからこそかもしれない。
ずっと一緒に同じ目線で遊んでくれた兄が、別の生き物へ変容していく様をまざまざと見ていたせいかもしれない。
性は、遊んでくれる優しい兄を奪った!!!!
そう思っていた。
性への嫌悪、性への反骨、しかし理解が追いつく前に周囲は侵されていった。犯されていったのだ、性という大きな大きな浪に。
が、しかしだ、そういった被害感情を持ってして思春期を迎える自分が特別であるとも、少数派であるとも、また、屈してはならない!という反骨も、社会的生活をなだらかに送るために切り捨てていった。
ひょっとすると、あそこにまだ、いるのか??
僕が。。??
まあいたとしても今あったら面倒くさいから蹴り飛ばしてしまうんだろうな。
あゝ、すまない。すまないことをしていふ。