日常が愛おしくなる瞬間とは、果たしてどういう時だろうか。
多くは喪失を用いて表現される。
それは間違いではない。
風邪をひいて初めて健康を意識するように。
当たり前は既に存在していて、そして気づけない。
残酷といえばそうである。
だから、思い返せば自分は幸せだった、という価値観も生まれる。
今が一番幸せ!!と声高に言っている時が一番幸せとも限らず、実感できるものに触れたから「今が一番幸せ!!」なだけであって、世の中には幸も不幸もあらゆる場所に散りばめてあり、どれを受け取り、どう受け取るかは個人の判断による。
個人の判断というと、能動的なものに聞こえるが、実際は受動的なもので、コントロールの効かないものだ。
幸せを掴み取るという表現がある。
幸せを掴み取る、とはなんだろう。
幸せの総数は決まっている、的な思想は嘘だ。
不幸な人間が誠実である、というのは嘘だ。
誠実である条件が不幸であるという社会構造に我々は組み込まれているが、そんなものは嘘っぱちだ、と平沢進が言っていたがその通りだと思う。
幸せな人間はどこまでも幸せで
不幸な人間はどこまでも不幸だ
それを気取っている。
僕は散々薬を飲んでいるが、幸せだ。
と、言ってしまえば、幸せなんだなあ。
ところで日常の美しさを描いて完璧だった映画は最近だと『凪の憂鬱』になります。礒部さんはアメリカならMCUにスカウトされてるようなレベルの人ですよ。
さておき、猫が目の前を通った時、これこれ、と僕は言うだろう。
この、これこれ、にもし猫が反応してこちらを振り向いたら、幸せだろうね。
自分はもう若くない。
20歳からみたら若くない。
40歳からみたら若い。
僕は23の時に、そういうことの繰り返しで自分も歳をとっていくのだろう、とFacebookに書いたが、いよいよだなと思う。いよいよ。
いよいよその時が来た。
彼女から見たら、僕は永遠に若い。
それでも歳を取り、考え方も変わる。体調も悪くなる一方だ。
しかし、彼女にとって僕の存在は永遠に若い。
彼女に一生をかけられるだろうかと、うじうじ考えて別れ話をしてみたものの、そのとき自分の頭に浮かんだのは「彼女と出会えた自分の人生はハイパーラッキー」ということだった。
彼女と過ごした日常が脳内に洪水のように傾れ込んだ。
そう!
日常とは、失う時に発動する超強力なギミックなのだ。
普段は見えないのが最強と呼ばれる所以なのだ。
そしてみんなそれを描きたがり、まあうまく行く時もあるけど大半が「まあまあ」と埋もれてしまう。
僕は彼女と出会えた自分の人生に満足することにしたのだ。
それが別れられなかった理由なのである。
自分がハイパーラッキーだと思うことにした。
少なくとも手放せなかった。
手放して、自分が狂わない保証がなかった。
怖かった。
怖くてしかたなかった。
あ、もうすぐ登戸着くからしょうもない文章も終わりです。
グッナイ。