『TAR』面白かった!
しかし、面白いということはわかったが、映画を理解したかと言われればできていない。
というか無理じゃん理解とか。
理解しなくていいじゃん。
もちろん、作品を理解することはとても大事で、理解しようと全力で努めるけども。
少なくとも破滅と再生を描いていることはわかって、そのどちらも心に刺さるところはあって、それが完全に理解したものでなければ語ってはいけない、というのは大いなる間違い、過ちだ。
理解していないから語り、理解したいから語る。
そこに嘘はあってはならない。
そして、理解できなくても良い。
この「理解できなくても良い」ことが理解できない人が多くて世の中参っちゃうよ。
面白い議論が生まれなくなるからだ。
突拍子もない言葉がない対話は非常につまらない。
わかりきったことを確認し合うだけの会話を僕は必要としない。
常に顔面ストレートを喰らいたい。そのつもりで言葉を吐いている。
これはマゾヒステリックな考えだろうが、完全論破されたい。
しかし僕は論破だけはされない手法を知ってしまっている。
それは自分が何者かになり変わることだ。
それ含めてターに完全論破され、人格否定されたい。
自殺に追い込まれるくらい、自分の全てを否定してほしいと思っている。
ということは、俺の人生全てを否定できるだけの人に出会えたという幸福なのだから。
普通の人は俺の人生全てを否定できるだけのパワーを持ち合わせていない。
ターはカリスマを神格化しすぎる日本社会にこそ刺さるべき映画なのだ。