ワコーのカド blog

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暴力について語るとき

映画において、暴力映画を撮る監督を3人挙げろと言われれば、ミヒャエルハネケ、パクチャヌク、内藤瑛亮を挙げる。

なぜ急にこんなことをいうかといえば『イノセンツ』を見たからだ。

紛うことなき暴力映画を見た。

暴力映画とは、暴力を扱った映画ではない。

暴力そのもののを扱った映画だ。

なので深作欣二は該当しない。

例えば3歳の子供が、アリの巣を発見し、キャッキャとアリを潰して喜ぶ。

それが真の暴力であり、暴力の真髄である。

痛みを痛みとして受け入れない、受け入れる感受性すら持ち合わせない。

暴力は痛みを持ってして画面に力を催すが、真の暴力は痛みすら画面に映さない。

だからこそ痛い。

見て感じる痛みなど底が知れる。

想像して感じる痛みこそ真の暴力だ。

僕は暴力映画が好きだ。

この世は暴力に満ち満ちているからだ。

でもそれを誰も見ようとしない。

見てはいけないことを知っているから、見せてくる人間には激しい嫌悪を抱く。

安い痛みほど、人は忌み嫌う。

痛みほど高貴なものであってほしいからだ。

自分の受けてきた痛みが、安くなっては困るからだ。

痛みを否定されると、自分を否定される気持ちになるのだ。

だからこそ暴力映画は我々の真に響く。

「自分の人生は安くない」「自分の人生は満ち足りたものだ」と信じている人間にこそ、作用する。

と、ここまで語って本題はなにかというと、内藤瑛亮監督の『パズル』は傑作なのである。

愛とか恋とか暴力とか、そういうの、音楽に乗せて、ポップに、悪趣味に、世間に知らしめなきゃいけない。

角川という巨大資本に乗って、

生と暴力について、暴力のもたらすエクスタシー込みで見事に描き切っている。

生きるとはなにか?暴力だ。

生きるとはなにか?恋だ!

恋に落ちるとは、暴力だ!

血に染まったアキレス腱で、踊り狂え!