『ミスミソウ』
山田杏奈とは何者かを知らしめた一作であるのは間違いない。
強くて弱い、弱くて強い。
強者のはずの人間が、強者ゆえに狙われる。
その絶妙な塩梅を身を呈して表現した。
あまりにも鮮やかな芝居だった。
鮮血の似合う俳優だと知らしめた。
さて、ここで玉城ティナの話に入る。
なぜその必要があるか?
共演が多いというのもあるが、二人の持つ性質について語らずして山田杏奈論は完成しない。
それほどまでに、玉城ティナとの共演作の山田杏奈の輝き方は段違いだ。
存在そのものが強者の佇まい。
演じる役柄は性(生)を語るものが多い。
「悪の華」「荒ぶる季節の乙女どもよ」
強者ゆえの苦悩すら捧げ出す、異様な文学的な匂い。
なぜだろう。
声の存在感が大きい。
「チワワちゃん」における玉城ティナの存在感はフィクション性と生身の橋渡し的役割を担っていた。
不安定なのだ。
あまりに現実離れした存在感を、「現実」的山田杏奈の演技力がより引き出す。
相性の良さがある。
ただ悪の華における飯豊まりえの素晴らしさも語らなねばならなくなるので、それはまたそのうち。
あと、芋生悠という異質な実力を持つ強者についても語らねばなるまい。
山田杏奈の持つ能力を最大限に引き出した「ひらいて」に結局は帰結することになる。
さておき。
今現在の山田杏奈の存在は、共演者の正当かつ異質な性質によって出来上がっていったと言えることは確かである。
続く