『君の名は。』『天気の子』そして『すずめの戸締まり』で帰結する、新海誠と大林宣彦の魂の邂逅。
それは隠れた「戦争」への向き合い方にある。
大林は太平洋戦争を。
新海は今現在を「戦前」と置いた上での「災害・厄災」つまるところ人災=戦争への帰結となる。
『すずめの戸締まり』で震災をありのままに「アニメ化」して見せた(つまり人の手を介して描かれた)ことは、新海の大いなる生への参拝を意味する。
生への参拝とは、生から死へのサイクルへの受け入れ。
命が繋がってきたことへの畏怖と敬意。
死を肯定=命万歳。へ。
ここで、現在公開中の『ケイコ 目を澄ませて』についても言及しておく必要がある。
ケイコのバリアフリー字幕付きを私は激しく推奨している。
それは、ケイコのバリアフリー字幕によって与えられる効果は大林宣彦の『この空の花 長岡花火物語』のもたらす「文字が画面に現れることによる脳の働き」と非常に近い。
日本語の文字情報は音情報よりも脳の伝達が早い。
これを大林は「ジャーナリズム」と強く結びつく『この空の花』で多用する。
文字情報が与える脳への伝達は、音よりもイマジネーションを刺激する。あくまで速度の話。
つまり、それを踏まえると『ケイコ〜』の字幕版は「文字情報という音」を耳より先に脳に入れ込んでしまうのだ。
これが、映画的気付き、快楽を生むのである。
しかし『ケイコ〜』で最も私の脳を刺激したのは、文字でも音でもない、「ダンス」だったことにはまた深く言及したい。
さて、深海に話を戻そう。
東京から地方を、地方から日本を浮かび上がらせる。
消えゆく景色を、人間を、文化を。アニメーションにして残すということ。
戦前を生きることを余儀なくされた子どもたちへ、大人の自分がするべき表現を。
戦争を知らない我々は、今、戦前を生きている。
で、大林の「僕は少年時代の自分を生き続けるために、少女を描き続ける」発言に2人は帰結するのである。
映画という装置と少女の相性はあらゆる面で良いのである。
これはしばらく変わらないか、もしくは戦前を超えた先に新時代的価値観の構築が起こりうるのか。
それは、人類にとって進化なのか滅却に近いものなのか。
そんな話でした。